リナリアと葉書

青色姫草です。小説家になろう様で小説を投稿したりしています。ブログの主な用途は日記です

いずれ羽化する14歳の中学生~『育ちざかりの教え子がやけにエモい』~感想

 

わたしのなかのエモの定義を増やしてくれた。

鈴木大輔『育ちざかりの教え子がやけにエモい』(ガガガ文庫/小学館・以下、本書)。このライトノベルがすごい!2021年版TOP100に名前を連ねることはなかったが、作者がどんな表現をするのか気になっていた作品。

わたしにとってのエモは『風夏』の「行くぜ浜中湖!」を読んだときの一瞬の魅力の爆発に対して使うものだと決めつけていた。花火の花開く瞬間こそ心が沸き立ち感情が揺さぶられる。だからこそ、本書の初読の感想は「エモくない」だった。だが、あとがきでガガガ文庫編集の岩浅氏について語られているのを見て、わたしの読み方が間違っていたのではと感じるようになった。あの岩浅氏が定義不詳の大海”エモ”に手を突っ込んで世に届けようとしたのであれば、この本には気づいていないだけで大きな熱量が潜んでいるのではないか。そう思いもう一度読み直した。

再読ではわたしの考えるエモを探すのではなく、何をエモと定義していたかを大海から探す気持ちで読み直した。

本書は14歳の中学生、椿屋ひなたのその内面を多方向から描こうとしている。性に興味を持ち、出来ないことに挑戦をして、同級生と喧嘩する。大人は誰もが抱えた思春期の悩みを忘れてしまうけれど、その悩みと対峙して戸惑い疑問を持つ姿を丸々と描こうとしている。

本書の特徴は二つある。

ひとつは読者の写し身が24歳の男性教師かつ小さい頃から見知った隣人という特殊な立場にあること。教師よりも近くて親よりは遠い隣人、その絶妙な立ち位置だからこそ引き出せる言葉や言動は、この本の肝でもある。特に性知識についての探究心はラノベらしくもあり、同時に友人と語りあった覚えもあって読んでいるこちらのほうが恥ずかしくなった。

もうひとつは、同級生や先輩、年下など読者の写し身として異なる視点があること。異なる距離感から椿屋ひなたを見通すことで、彼女が何にもがいているのか蜘蛛の巣の一本まで繊細に見通せるほど解像度が高くなる。その解像度の高さが読者の思い出をくすぐってくる。

『育ちざかりの教え子がやけにエモい』におけるエモとは、この14歳の少女が移り変わる変遷を指しているのではないだろうか。大人になって振り返れば笑い話でも当時は長く感じた。大人の視点から見れば一瞬で変わる時間にいるのだから、その爆発力はエモと感じるはずだ。

このエモに一番近いのはおそらくアニメ版『響け! ユーフォニアム』の高坂麗奈だと考えている。あの少女が持っていた大人への憧れや背伸びと、手放していない子供心、それから周りとの衝突。美貌と実力で本書とは異なるが、"周りの目を惹くほどの"という点も類似してる。本書が表現したかったのはそんな思春期真っ只中の14歳の中学生の長い一瞬だ。一巻目は消化不良的な終わり方をするが、その後の期待を煽るものだとご了承いただきたい

 

gagagabunko.jp

 

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育ちざかりの教え子がやけにエモい(https://gagagabunko.jp/lineup/202004.html#04 より拝借)

 

 

(以下、ネタバレ)

 

P.S.

『打ちのめされるようなすごい本』を読んだからそれっぽい書評をしたいと思って書評を書き始めたものの、結局は読書感想文になったやつ。

それと2巻目まだ読んでないから期待の結果がついてくるかは不明。

 

まとめきれなかった箇所について

・先生

教師仲間で大学の先輩で読者の写し身の元カノがいるんですけど、この人はきっと「年を取れば大人になるけれど思い描いていた大人の姿ではない」という一般的な典型パターンを描いたものだと思う。周りは結婚してるけど自分は~っていうシーンで、「大人として描かれる存在はいてもみんな自分を子供のように思っている」のかなって。いつかは知らないままに成長をしているけれど、憧れた大人には程遠いみたいな。

でもそれこの小説に盛り込む意味ある?って思った。年が近いから共感はしたけれど、本作に含む意味はちょっとよくわからなかった。

 

あと、好きなシーンはたまたま見ていたという理由だけで走り高跳びに挑戦をして失敗をする椿屋ひなたです。その場に立ち会った気にさせるほど感情描写が丁寧で、わたし自身も夕暮れのグラウンドに立って失敗をする姿を目に映していたと思わせる書き方でした(でも、居残り練習して夕暮れグラウンドの走り高跳びってFate