庭!『わたしの美しい庭』感想
※思考途中で記載しているため後々になって掌を返すことが予想されます※
ネタバレありの感想文です
『わたしの美しい庭』 著:凪良ゆう
あらすじ
マンションの屋上庭園の奥にある「縁切り神社」。そこを訪れる<生きづらさ>を抱えた人たちと、「わたし」の物語。
(ポプラ社 公式HPより)
感想
全体
アラフォー独身女性、ゲイ、うつ病ニートなど、一般的に社会に受け入れられていない人たちを取り上げた作品。彼ら彼女らが感じた息苦しさを丁寧に(読者が苦しむほど丁寧に!)描写されている。
真綿で首を締めるようなという表現が似合うほど、ひとつひとつの社会との不和を読んでいると、そんな経験がなくとも自分がそう扱われた気すら感じた。
特に、アラフォー女性が中間管理職の役割を果たすために周りと折衝もせずに怒りの掃き溜めとなっているシーンはありそうでつらい。
自己肯定が強く、昔の白樺派の本はこんな感じだったのかなと思った。
要素の複合
いろいろな要素が詰まった作品。
マンションの屋上にある神社、境内代わりの屋上の庭、元妻の娘を引き取った男、両親が他界して引き取られた小学生、LGBT、独り身アラフォー、うつ病
社会が抱える人の問題と神社は組み合わせがしやすいほうだと傍からは思う。けど、タイトルにもなっている「庭」は難しい。読了してもなお「庭」への解釈に迷っている。どうして作者は「庭」を作品のテーマに据えた(添えた?)のか。……いや、答えなんてわからないんですけどね!知りたい。
庭
作品の最後には統理(トウリ)や路有(ロウ)が「他者を認める。違うけど認め合おう。認められないときは黙って通り過ぎよう」(意訳)と言ってしめくくる。要は「余計なお世話」をするなだ。
しかし、ここで疑問に思うことがあった。タイトルにもあり舞台としても何度も登場する「庭」について。
庭で何をするのかと問えば「花の手入れ」と答えるだろう。それは"お世話"をしていることになる。
手入れをする側の恣意的な根拠で不必要な雑草をむしり取り、美しいと感じた花だけを植える。
これは娘に結婚を迫る母や自分の見方の延長線上で謝罪をする小学生など、本作における余計なお世話をしてきた側の人たちと同じことをしているんじゃないかと思ってしまった。
その人たちの善意を「余計なお世話」や「へんな思いやり」と称しながら、庭に対してはその善性を働かせている。
おそらく作者の考え方、もしくは読者に感じてほしい読み解き方としては違うことはわかっているのだが、いまのところどう解釈するべきだったのかがわからない。
百音
読み終わったときの率直な感想は「え、誰の話だったの?」でした。
普段キャラクターが主軸になってるラノベばかり読んでいるからそう思ったのは否めませんが、誰のどういう話かがわからずにモヤっとしたからには仕方がない。
ポプラ文庫の<内容紹介>やアマゾンのあらすじにはこう書かれています
小学生の百音と統理はふたり暮らし。朝になると同じマンションに住む路有が遊びにきて、三人でご飯を食べる。
百音と統理は血がつながっていない。その生活を“変わっている”という人もいるけれど、日々楽しく過ごしている。
三人が住むマンションの屋上。そこには小さな神社があり、統理が管理をしている。
地元の人からは『屋上神社』とか『縁切りさん』と気安く呼ばれていて、断ち物の神さまが祀られている。
悪癖、気鬱となる悪いご縁、すべてを断ち切ってくれるといい、“いろんなもの”が心に絡んでしまった人がやってくるが――
わたしはこの文章を読んだとき主人公といえるヒトは百音だと思いました。冒頭とラストでも、百音が視点主になっています。
けど、百音は主人公ポジションではありません。かつ物語の半分以上の出来事を知らないままの小学生で、脇役と言っていいほどです。ときたまちょろりと出ては笑っている。
つまりどういう話だったんだってばよ……となった私とおんなじそこのあなた!
『わたしの美しい庭』著者・凪良ゆうが語る、人の縁の難しさ 「集まるというのは、排除することと同義」|Real Sound|リアルサウンド ブック
上記がカンニングペーパーとなっておりますご査収ください(決して作劇的な百音の役割がわからずに説明できないから投げたなどではありません!断じて!)
以上、『わたしの美しい庭』感想でした。
久しぶりに丁寧な描写の文章を読んだ気分でした。
百音の役割について語れるときがきたら追記します。たぶん追記なし。